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【オリンピック】33歳ハードラー木村文子選手 「自己新で集大成を」広島の恩師がエール

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広島で活動しています、久保田夏菜です。『第 32 回オリンピック競技大会』観戦は無観客となってしまいましたが、実は、私、陸上女子の予選チケットを持っていました。当選した当初は、私が一番に応援している陸上女子100mハードルの木村文子選手の雄姿を見られるチケットだったなんて思いもしなかったですが。観戦は叶わずとも、そんなハッピーチケットをゲットできていたなんて、それだけで幸せです。

木村文子選手が所属していた陸上部顧問からのメール

数週間前、突然私のところに入った1通のメール。
「横断幕を作りたいので、同級生に声をかけてもらえませんか?」
これは、小学校5・6年生の時の担任・灰原利彦先生から届いたものです。誰もが口を揃えて「怖い」と言う厳しい方ではありましたが、未だに連絡を取り続けている数少ないお世話になった先生の1人で、放課後に行われていた陸上クラブでも指導を受けていました。
実は、その陸上クラブの2つ下の学年に、木村文子選手がいたのです。当時から実力はずば抜けていて、余裕で私は抜かされておりました(笑)。そして、何といっても屈託のない笑顔が印象的でした。
何か力になれるなら喜んで!という気持ちで、わずかながら協力させてもらいました。
東京2020陸上女子出場・木村文子選手の横断幕

木村文子選手の23年間破られることのない大会記録

見事、2大会9年ぶりの五輪代表に決まった木村選手。小学生6年生の時に、灰原先生がきっかけでハードル競技に出会い、社会人になってからも、ハードル界の第一線で活躍を続け、2019年、アジア選手権を制するなど力走。その後、コロナや故障を乗り越え、世界ランキングで今回の切符を手にしました。
そんな木村選手の陸上人生の歩みは、先生のスクラップファイルに残されていました。たくさんの記事の中から先生が見せてくれたのは、23年前の県民大会の時のもの。木村選手は、ハードルを始めた1年目に全国大会に進み、その後の県民大会で大会新記録を出し、未だにその記録は破られていないのだといいます。負けず嫌いな性格や、ここぞという時の強さはその当時から変わらないのだとか。
木村文子選手小学生時代の顧問灰原先生と当時の記録
そして驚いたのは、十数センチほどの高さになる複数のファイル、これまでの教え子たちの卒業後の活躍ぶりがわかる記事などがスクラップされているのですが、どこに誰の何の記事があるのか先生が全て把握されていること。大事にされているのはもちろんのこと、思いを馳せながら何度も目を通していらっしゃるのだと感じました。

「転んだのは小学生以来」木村選手のメンタルの強さ

そんな先生が、木村選手の武器の1つだと話すのが、メンタルの強さ。ハードルを始めて間もなく、初の全国大会へ出場するのですが、大きな舞台でのレースを前に、練習で転んでしまったといいます。もうだめだろうと感じた先生の心配をよそに、木村選手は
「気持ちが楽になった」
と笑顔で返し、予選を見事突破。
さらに、実業団で臨む全日本大会の時、同じように試合前の練習で転んでしまったのです。その時も
「小学生の時ぶりに転びました」
と笑顔で報告してくれたといいます。動じることなく自分のすべきことを見据えて実力を発揮できるメンタルの強さが、レースにいい影響を与えてくれることを期待したいと話していました。
木村文子選手の新聞記事

自己新の度に引き続けたマークをもう一度

小学校を卒業したあとも、駆けつけられる時は、海外であっても足を運びエールを送り続けてきた先生。どの大会で、どんな記録を残したかも、全て頭に入っています。自己新が出る度に、そのタイムをマークし続けてきました。ここ数年、タイムが伸び悩んでいることも知っています。
「本人は集大成だと言っている。だからこそ、もう一度自己新をとらせてやりたい」
これが、23年間木村選手を見守り続けてきた先生の思いだそうです。

夢舞台での我らがあやちゃんの活躍、応援しています!

アナウンサー紹介

自然大好きアナウンサー。2年前に田舎に移住し、毎日1時間半かけて職場へ通う。仕事は、バラエティ番組や情報番組が中心。休日は、畑仕事に汗を流す。ライフワークは、カンボジアの田舎にある地雷村に通うこと。現地では、自らカメラを回し、取材を行い、内戦の爪痕に苦しむ村人の現状を伝える活動にも取り組む。2018年、ヒロシマ平和創造基金「国際交流奨励賞」受賞。